行雲流水

私は27歳のときに出家して禅のお坊さんになろうとしました。しかし結果的にその志は実現できませんでしたが、禅について学び、座禅やお寺での作務などをして修行の疑似体験のようなことをしました。

お聞きになったことがあると思いますが、禅の修行僧のことを「雲水(うんすい)」と言います。この呼び名は、「行雲流水」(こううんりゅうすい)に由来します。

行雲流水は、まさに読んで字のごとしで、空を行く雲のように、そして川を流れる水のように、1カ所に留まることのない様子を言います。ここから、物事に執着せず、淡々として自然の成り行きに任せて行動することの例えとされています。修行僧もまた、1カ所に留まらずにいろいろな師を訪ねて行脚したことから雲水と名付けられたといいます。

私はこの雲水になり損なってしまったわけですが、この行雲流水という言葉は、執着まみれのビジネスの世界に身を置く者として、自分の心をニュートラルに保つための座右の銘の1つになっています。自慢にもなりませんが私はとても執着心が強い人間で、かつ過去の失敗をいつまでもウジウジと、「ああすればよかった。こうすべきだった」と何回も何回も思い起こしては悔やんでしまうという情けない性格の持ち主です。「持ち主でした」と過去形にしたいのですが、まだ完全に抜けきっていないので現在形にしておきます。

この行雲流水という言葉に触れたとき、「川の水も、流れが悪いところにはゴミがたまってよどみができてしまう。心も同じで、1つのことにこだわってしまうとそこによどみができるものだ」という趣旨の解釈を読みました。まさに若いころの私の心は、よどみの集合体でした。過去のことにいつまでもとらわれていれば、目の前のことに全力で向き合うこともできませんし、未来への希望もわきません。

言うまでもありませんが、過去にとらわれないことと過去を反省しないことはイコールではありません。反省するときは反省する。そしてそこから教訓など何かを学び取る。そしてそこまでできたら先に進むということが大切であると、この言葉に出会って頭を切り換えることができました。

禅の修行道場にいたとき、毎日、般若心経を全員で読経していました。プロの修行僧(?)としてではなく、素人の修行体験みたいなものでしたから本格的な厳しさではなかったのですが、お坊さんからいろいろな法話を聞くことができました。行雲流水という言葉によって、執着心を捨てねばならないと思った私に、さらにそれを加速してくれたのが、その法話の中で紹介された、

とらわれない心 かたよらない心 こだわらない心
 ひろく ひろく もっとひろく
 これが般若心経 空(くう)の心なり

という、薬師寺の管主であった高田好胤師の言葉でした。私には「とらわれない心 かたよらない心 こだわらない心」というフレーズが、経典の中身の理解よりも先に素直に心に刺さりました。

過去の苦い経験で味わった感情面だけにとらわれていると、そこから心のよどみができてしまい、やがてそれが固定観念や先入観というものに姿を変えていたことに気付きました。自分の心を縛り付けている執着心などの制約から離れ、心の動きを自在にすること。目の前にあることをそのまま見る。そうしたことができる人間になりたいと思います。

2024年12月22日