日本語には、大変便利な言葉がたくさんあります。その言葉を言った方も言われた方も、実はその意味について双方が共通した理解をしていない場合でも通じてしまうような便利さがある言葉もあります。
最近気になっているのは「大丈夫です」という言葉です。これは「良いです」という意味と「不要です」という意味で使っていませんか。理髪店に行って洗髪してもらい、理容師さんから「かゆいところはありませんか」と聞かれて、「ありません」と答えるべきところをついつい「大丈夫です」と言ってしまう。喫茶店で「コーヒーのお代わりはいかがですか」と聞かれて「大丈夫です」と答えてしまう。レストランで食事中、店員さんから「お口に合いますか」と聞かれて「大丈夫です」と言ってしまう。
私が最近、特に気になっているのが「頑張る」という言葉です。他人に対して「頑張ってください」と言ったり、他人に対して「頑張ります」と言ったりすると、お互いに気持ちは簡単に通じ合います。大丈夫という言葉同様、頑張るという言葉も実は曖昧です。曖昧さを好む日本人独特の言葉です。
GEに勤めていたとき、上司から指示された内容について英語で答えるために、当初は”I will try my best.”というふうに言っていました。この英語を和訳すれば、「最善を尽くします」ということになりますが、実はこれは結果責任についてはどうなるか分からないという意味を含む言葉だったことを、後で知ることになります。つまり、やることはやるけれど、その結果については保証できない、ということを言外に含むのです。つまり日本語で「頑張ります」と言いたいとき、”I
will try my best.”と英語で言ってはいけないということを学んだのです。英語が母国語の同僚たちの口から、そのフレーズが出てくるのを聞いたことがなかったのも腑に落ちました。では、どうしたらよいか。最善を尽くすと言う代わりに、どういう結果をもたらすのかということを具体的に言うべきなのです。
一方、他人に対して、別れ際の挨拶で「頑張ってね」と言ってしまう自分がいました。これも英語にならない日本語です。その趣旨を踏まえて、強いて言うなら”Good
luck”でしょうか。この他人に掛ける別れ際の言葉の違いから、あるときふとした考えが浮かびました。日本語の「頑張ってね」は、自分で言う「頑張ります」と共に、プロセスに注目した言葉ではないか。一方、英語で言う「幸運を」は結果について言っているのではないかと。頑張るというのは、プロセスについて最大の努力をします、と言っているのであって、結果は二の次になっています。
キリスト教など一神教の人たちは、結果は神の意志であると考え、努力の程度によって結果が必然的に決まるとは考えていない節があります。努力しなくてもうまくいくこともあるし、その逆もある。すべては神のみぞ知る、です。そうなると他人に掛ける言葉も、「神のご加護を」(”God
bless you”)となったり、「幸運を」となったりするわけです。もちろん、神の意志によって結果が決まるのだから、努力は適当にすれば良い、と考える人たちが西洋社会にてんこ盛りでいるわけではありません。そう考えがちだからこそ、結果について互いにコミットする契約という概念がしっかりと根付いたのではないでしょうか。
日本企業を見ていると、結果にこだわるところがまだまだ弱い気がします。精いっぱい頑張ったのだから良いではないか、という風潮がよく見られます。もちろん結果だけを求めて、そのプロセスをないがしろにしてはいけません。こうなると、いろいろな不正行為を働く人たちが出てきて、社会を騒がせてしまうことになります。
私は研修で、「研修期間中、自分に対して、そして他人に対して頑張るという言葉を使わないで過ごしてみましょう」と言っています。このように少し意識するだけで、「頑張る」に代わる具体的な言葉を考えるようになり、曖昧な雰囲気だけのコミュニケーションが少なくなり、さらには結果にこだわる雰囲気をつくることができます。また、脳科学の観点からも「頑張ります」という言葉は、脳にとって曖昧で意味不明なものです。頑張ること自体が目標となり、目的を達成しなくても自分は頑張ったのだからと、自分自身を納得させてしまいます。これではいつまでたっても、目的を達成することはできません。
日本人特有の頑張りますというインプット指向から、明確な目標を達成するアウトプット指向に変わらないと、
私たちの働き方を変えることはできないと思います。